バカラとの御縁は1970年ようびが開店した年からでした。まだバカラ・ジャパンが立ち上がっていないころで、ジョージジェンセンやロイヤルコペンハーゲン、オレフォス、イッタラ等を輸入なさっていた小柴さんとおっしゃる輸入元から入れていただいていました。バカラ・ジャパンが立ち上がる頃、日本の食器(特に塗り物)の中に大変うまくバカラを取り入れていると、バカラ社からよい評価をいただき、工場にも呼んでいただいたのでした。パリからTGVに乗ってバカラという街に降り、お迎えしていただいて工場のすみずみまで案内していただき、さまざまな工程を見学させていただきました。
「今この工場にはマイスターが36名おります。けれど一切その人たちの名前は出ておりません。皆バカラ社のものとして世に出ます」と誇らしげにおっしゃったのを覚えています。名前を売る必要はないとはっきり考えていらっしゃることが解ったのでした。
各工程でそれぞれのマイスター達がほこりとよろこびを持って仕事をしていらっしゃるエネルギーが満ちている、それが見学者の私にもしっかり伝わって来たのでした。
大阪の名だたる骨董商春海商店さんからの大量の注文を丸紅飯田が仲介された、たくさんのデザイン画を見せていただき、日本とバカラの交流も知りました。殆んどが茶会席の道具で、その頃のバカラではかなり力を入れたものだったそうです。そのものは散逸しつつも、いろんなところで使われていて、今も大切にされているようです。
バカラもさまざまの経営的変遷を経て、ここ20年位の間に手づくりのものが激減し、今ようびではバカラのお扱いはいたしておりません。この度、大切に思い、仕入れさせていただいた手持ちのものを買っていただくことにいたしました。これらはすべて手づくりのもの、グラスたちのやわらかな線と薄さをおたのしみいただけるものです。