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病院・薬剤師・介護・エステ等、TERUYUKIメディカルウェア(看護衣・介護衣部門)では
“190,000着”以上ご愛用いただいております。
清潔感があり、動きやすさ、着心地を重視するこの業界での実績は“安心”そのものです。
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▶ どんなブランド?
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いろんなコーディネートを充分楽しんだ・・・甘い感じはちょっと苦手・・・シンプルが大好き!
TERUYUKIを長年ご愛用下さっているお客様にはこのような方々が多いです。
たどりついたのは「清潔感のある上品でシンプルなもの」。
飾り気のないシンプルなものほど、素材やパターン、縫製の良し悪しがひと目でわかってしまいます。
何かが違う!際立つ美しいシルエット。カットソー1枚も手を抜かない「心をこめたモノづくり」を心がけております。
どうぞ初めての方もご安心下さいませ。
ドラマやCMなどでも国内外、数多くの女優さんや俳優さんが着て下さっています。
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▶ Media info
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▶朝日放送ラジオの番組 【磯部・柴田の日曜のびのび大放送】にデザイナーTERUYUKIが生出演しました。
▶TBS水曜劇場「赤かぶ検事 京都篇」にて衣裳提供させていただいきました。
▶金曜プレステージ「京都門司港殺人事件」にて女優の川原亜矢子さんにTERUYUKIアイテムを着用いただきました。
▶『ディア・ドクター』が第33回モントリオール世界映画祭のコンペティション部門へ正式出品されました。
▶ 俳優の瑛太さん落語家の笑福亭鶴瓶さんが医師役、余貴美子さんが看護師役で映画「ディア・ドクター」に主演されTERUYUKIメディカルウェアがこの映画に使用されています。
▶水曜ミステリー「名犬フーバーの事件簿」にてTERUYUKIを着用いただきました。
▶水曜ミステリー「誤算」にて女優の羽田美智子さん他数名にTERUYUKIのメディカルウェアを着用いただきました。
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▶Personal history
▶Personal history 1
“生を授かる”
藤井家の長男として生を授かる。
父は、当時まだラジオ・パーツ屋であった上新電機に入社し社長の片腕として活躍する。
父の口癖「数字のマジック」その遊びの中からサービス業のノウハウや経済を学ぶ。
母は、婦人服のオーダーメイドのデザイナーとして敏腕を奮っておりました。
幼いながら、お客様へのお茶出しの手伝いをしたものです。
お客様が「偉いねぇ〜」って言って下さるのが、母は嬉しかったのでしょう。
得意メニューはカルピス…。でした!
その母からは、高度な縫製技術を学びました。
ある日ご近所さんから母にこんな話が…。
「素直な良い子に育つには、男の子には、女の子の服装
女の子には、男の子の服装をさせるといいよ!」
それを真に受けワンピースやビキニの水着を着せられたりと
本当に、よく女の子に間違えられた思い出があります。
ちなみに妹は、男の子に間違えられましたね。

▲幼少のTERUYUKI
▶Personal history 2
“衝撃のロシア展”
芸大付属幼稚園に通っていた事もあり、常にアートに触れる環境があったように思います。
その時の絵が残っているのですが、全く記憶に無い!
スカートめくりで先生に怒られた記憶のみ。。。
小学校入学当初は、絵や立体物、宇宙や恐竜にも大変興味を持っていました。
今もSF映画や恐竜の化石…。等は、ワクワク、ドキドキです。
良く『未来の街』なんて言う絵を描いていましたね。
立体物では、原始時代の家を作りましたよ。
たくさんの松ボックリを拾ってきて1枚1枚ナイフで切って
瓦に見立てて屋根を作る、自分のアイデアです…。
何か見本を見て同じ物を作るのではなく
基本は踏まえた上で、創造するのが、楽しかった様です。今も同じくですが…。
小学6年生の担任の先生には、その感覚をより刺激される事となります。
連れて行って頂いた京都国立近代美術館で開催されたロシア展は、衝撃!でした。
アイワゾフスキー『第九の波』忘れられません。
ピカソやロダンに出会ったのもこの年ですね。
ただ原点は、昔両親に連れて行ってもらった大阪万博だった様に思います。
岡本太郎氏の『太陽の塔』や『手のひらの形状のイス』等大好きです。

▲太陽の塔と幼少のTERUYUKI
音楽やスポーツも大好き!水泳は選手として何度も試合に出場していました。
早くは、なかったですが…。
オリンピック候補が数人いるような、とんでもない学校でしたので…。
高学年になると転校生以外に『カナヅチ』がいないのです。凄いでしょ!
音楽は、歌謡曲に始まりフォークソング、ニューミュージックに移り
海外のロックを聞くようになっていました。
キッスやエアロスミスの時代だった様に記憶しているのですが…。
12歳、空手との出会いです。
故:大山倍達(極真会館総裁)の著書と出会います。
片っ端から著書を読み漁ります。
強さと、世界を舞台に活躍すると言うすばらしさを知ります。
世界最強の人にいつか会ってみたい。そう思うようになっておりました。
中学に入るとミュージシャンを目指す友達に出会います。
好きな事で生活しようと夢に向かっている姿に羨ましく感じたのを覚えております。
ギターを学校に持っていって休み時間みんなで、歌ったりしましたね…。
勉強をした記憶がほとんど無い中学時代です。
最初のウォークマンが発売されたのがこの時期です。
友達のウォークマンからYMOのテクノポリスが
凄く良い音で聞こえてきたのを覚えております。
カルチャーショックでした。
友人にダビングしてもらって、聴いていたのが
マイケル・シェンカーやスコーピオンズ、ヴァン・ヘイレン等々
パット・ベネターも好きでしたね。
感度が高い中学校だった様に思います。
あの時代の、あるムーブメントもこの街から興ったのです。
ジョン・レノンが、逝ったのがこの時期です。
夕暮れ友人が、走って報告に来たのを覚えております。
▶Personal history 3
“挫折と心の切替”
16歳、これからの世の中は、手に職がないと…。
っと言う単純な思いから工業高校 機械科に進学。
同時に、憧れの国際空手道連盟 極真会館 関西本部の門下生となります。
念願の大山倍達氏にもお会いすることが出来ました。
志も高く世界を飛び周ることを夢見ておりましたが
ケガ(右膝十字靭帯断裂・半月板損傷)のため1年半で、修行を断念する。
リハビリ後、復帰しましたが、サンドバック蹴ると、靭帯が切れているため
足が曲がるはずの無い横方向に曲がってしまうのです。
その日の稽古で辞めようと決意をし帰宅したのを覚えております。
ただその頃の教えが今後の人生の支えとなって行きます。
【あきらめない・心が折れない不屈の精神】
なってしまった以上悩んでいる時間も暇も無い。
これからは、コンピューター、光ファイバー、ロボットがキーワードと決め!
またまた単純に、IBMか住友電工に行こうと気持ちを切り替え
勉強などした事無いのに猛勉強が始まる。
【やったらなんでも出来る不可能は無い】という自信はこの時に出来たように思う。
最終的に、部品ではなく、完成品を製造したい。という思いで
19歳、産業用ロボットメーカーに就職することになります。
ホンダ・日産・マツダ・キャノン・GM・フォード等、世界各国の自動機を製造し
日本国内の自動車メーカーの工場は、全て周りました。
トヨタ生産方式と言う素晴らしいシステムを知ったのもこの時期です。

▲道場生の頃のTERUYUKI(奥2列目中央)
▶Personal history 4
“決 意”
その仕事にも疑問を感じ、【もっと感動したい、感動してもらいたい】
そんな気持ちが強くなり、一生続けるつもりだった会社を辞める決意をします。
終身雇用が当たり前だった時代の話です。
人生やり直すからには、後悔しないよう自分の夢に賭けてみよう。
20歳大阪モード学園入学を決意します。
父には、猛反対され母には、「お父さんを説得できないで、何ができるの?」っと問われ
再度説得!「やるんやったら一番になれ」ようやく許可が下り入学。
当初は、スキーでもしながらボチボチっと思っていたのですが
半年が過ぎた頃、ファッション業界でアルバイト(下積み)をさせて頂く機会に恵まれ
そのレベルの凄さに危機感を抱き、決心することになります。
仮想のライバル【凄い怪物】を想定し
学校の事は、出来て当たり前プラスα何が出来るかを常に考え行動する様になります。
一人の持ち時間は、24時間みんないっしょ、この時間の使い方のみ…。
1%の天性が無いのなら残り99%努力すれば良い単純そう考えました。
在学中には大手アパレルの専属工場を見学させて頂く機会に恵まれました。
大変綺麗な工場でしたが、自動車等のラインに比べたら
20年は遅れているのでは、と言うショックを受けたのと同時に
何とかなるのでは、っと言う可能性も感じました。
24歳大阪モード学園を無事卒業。たくさんの賞を頂き
TV・新聞社の取材をはじめ、新年には、NHKで特番を組んで頂くなど
有意義な学生生活だったと確信しております。
全国に良きライバルも出現いたしました。
現在活躍中のデザイナーは、学生時代からの知り合いが多いです。
あの頃の各校の精鋭達です。甲子園みたいなものかな。
卒業と同時に、ある企業でブランドを立ち上げる。と言うお話と
パリへの招待留学のお話を頂いたのですが
早く社会へ出たいという思いが強く、その企業にお世話になることになります。
新ブランドという事で、ノウハウも無く、事がうまく運ばず
1年半でブランドが廃止になると共に去る事となります。
クリエーションとマネージメントのバランスの大切さを痛感した時期です。

▲モード学園入学当初学校前にて
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▶Personal history 5
“独 立”
26歳、今までの教訓を活かし定期預金30万円を元手に独立。
「何をするにも自信と誇りをもって」そんな思いから会社名を【PROUD】と名づけました。
事務所は、自宅の自分の部屋10畳に自分で作った机とFAXのみ。
当初は、在庫を持つ大変さ、怖さを知っているため
自社生産する事は避け、企画の仕事やスポンサーを探すことにしたのです。
バブル崩壊の真っ只中で仕事は一つもありません。
商社等を周る営業活動に励みましたが、そうした状況が10ヶ月続きました。
お金はどんどん無くなります。動けば動くほどマイナスです。
ある日電車賃を一駅分でも浮かそうと、歩いて次駅へ…。
切符を買おうと価格をチェックするとさっきの駅と同じ価格…。
(ああ〜!空回りしてる)って笑ってしまったのを覚えています。
「果報は寝て待て」「寝て待つんや無いで…。」「練って待つんや…。」
叔父に言われたこの言葉は、今も教訓となっております。
年末が近づくに連れ、このまま年を越して良いのかという焦りが強くなってきます。
生活も出来無い、ご飯も頂けない、ようやく決心いたしました。
自分で仕事を創造して行こう。
【クリエーションとマネージメントのバランス】
【人の内面を引き出そう】をコンセプトに自力でのTERUYUKIの展開を決意する。
スタート直後は、コンテストの賞品で頂いた軽四輪車に2〜3着の商品サンプルを積み
お店に持ち周って受注を頂いておりました。
皆様の暖かくまた力強い支えを頂き、少しづつですが前へ進み出すことが出来ました。
取材にもたくさんお越し頂きました。
すぐ横にベッドが置いてある作業部屋の床に座布団引いて、正座で、膝突き合わせて…。
専門店・百貨店のバイヤーさんも同様で、
有名ファッション誌の編集長さん等もいらっしゃいました。
今思うと凄い光景です。
オリジナルに加え、企画・ディレクションの仕事もこなす事になり
1996年事務所を中央区南船場に移しました。
心斎橋・四ツ橋に近く便利な割に未開発だったからです。
この頃より合同展示会やショーをさせて頂くようになりましたが
疑問が頭をかすめるようになります…?
スタンスを少し変える!商品やお客様により近いところで仕事がしたい
そのために必要な事を整理することにいたしました。

▲パリのユネスコ国際本部にて
その後自力でのTERUYUKIの展開を決意する
▶Personal history 6
“たどり着いた先は”
物事の考え方にも変化が出てきます。
っふ!と振り返った時、自分の喜びって…?なに?
…。人が喜んでいる笑顔かな?!!
たどり着いた先は…、
【世の中の役に立ち、喜んでいただく事】
喜び、楽しく、元気良く、生きて行こう。
日々良い種をまこう、明日か、10年後か、100年後か
いつの日か芽が出るよう。そして気が付い時には
毎日花が咲き続けているようにしたいものです。
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